世界遺産 白川郷・五箇山の合掌造り集落の観光を終えて1日余ったので白川郷から富山県高岡市まで足を伸ばし国宝 瑞龍寺・前田利長公募所・高岡城へと加賀前田家ゆかりの地を巡ります。
国宝・瑞龍寺
白川郷バスターミナル、07:00発、加越能バスの世界遺産バスに役場前のバス停「鳩ヶ谷」から乗車して富山県高岡市へ行きます。09:10、時刻表通り高岡駅前到着です。
高岡では初めに国宝・瑞龍寺へ向かいます。瑞龍寺と前田利長公募所を結ぶ八丁道には前田利長の銅像があります。
瑞龍寺の拝観料は500円。
まずは総門から見ていきます。
入口の総門をくぐると目の前の山門が工事中です。
瑞龍寺の公式サイトでは工事のお知らせは出ていなかったのですが、いつまで工事なのか確認してみると工期は平成29年4月27日~平成33年3月31日となっています。何と4年間も工事です。平成33年と表記されていますが、これは平成終わって元号変わっているでしょう。残念ながら立派な山門が見られずです。
瑞龍寺は曹洞宗の寺院になり、加賀藩二代藩主前田利長(利家の嫡男)の菩提を弔うため三代藩主前田利常(利家の四男)によって建立された寺になります。世継ぎのいなかった利長は慶長10年(1605)、利常に家督を譲り富山城に隠居しますが、慶長14年(1609)に富山城下で発生した火災により富山城の大半も焼失、幕府の許可を得て隠居城として高岡城を築城しますが慶長19年(1614)に亡くなります。
わずか11歳で加賀百二十万石を譲られた異母弟の利常は、深くその恩を感じ、加賀の名工山上善右衛門嘉広を棟梁として七堂伽藍を完備した瑞龍寺が造営され、広山恕陽(こうざんじょよう)禅師により開山されました。造営は利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)から、利長の五十回忌の寛文三年(1663)までの17年の歳月がかかりました。
加賀藩前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を持ち、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、高岡城(廃城されていたが軍事拠点の能力は密かに維持)南方の防御拠点としての機能を持っていたとも考えられる。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価され、平成9年(1997)には仏殿、法堂、山門が国宝にも指定されています。
仏殿を囲むように回廊が建てられており、回廊を歩くとお寺の荘厳な雰囲気が漂ってきます。
瑞龍寺石廟。前田利長が織田信長、信忠の分骨を迎えた石廟で向かって右から前田利長、前田利家、織田信長、織田信長公側室、織田信忠の5人の石廟があり、中でも利長のものは壁面に二十五菩薩を刻んだ代表的な石廟になります。
前田利長公墓所
瑞龍寺の後は前田利長公墓所へ向かいます。瑞龍寺から墓所まで東へ真っすぐ伸びる道が八丁道と呼ばれる道で参道のように整備されています。
前田利長公募所にやって来ました。ここは加賀藩二代藩主前田利長(前田利家の長男)の墓になります。前田利家ら前田氏の墓所は金沢の野田山墓地になりますが利長のみが高岡に墓があります。
この前田利長公募所は内堀と外堀があり高岡城の南に位置している瑞龍寺とともに密かに高岡城南方の防御拠点としての機能も併せ持っていたと思われます。
キリシタン大名 高山右近が設計した高岡城
高岡古城公園にやって来ました。平成27年(2015)に「高岡城跡」として国の史跡にしてされています。
高岡城は前田利長が隠居していた富山城が慶長10年(1609)に火災により焼失したために、新たに隠居城として築城されました。城の設計(縄張り)は前田家の客将として身を寄せていたキリシタン大名の高山右近により行われたとされています。高岡古城公園の片隅には高山右近像があり高岡城の設計者として、その功績が讃えられています。
高岡城は平城であり、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸まで備えています。1615年(元和元年)一国一城令により廃城となりますが、密かに軍事拠点の機能は維持されたままでした。明治維新を迎え高岡城跡は公園として整備され、1875年(明治8年)越中国一之宮 射水神社が遷座。現在、高岡古城公園には動物園、市民会館、市立博物館などがあります。
高岡城の本丸跡には前田利長像があります。高岡観光を終えて高岡駅前から加越能バスの世界遺産バスで白川郷へ戻ります。
飛騨蓬莱吟造り生貯蔵酒
晩酌は渡辺酒造店の飛騨蓬莱吟造り生貯蔵酒 300ml 420円になります。酒米に飛騨ほまれを使用しており、生酒ですので冷蔵庫でキンキンに冷やして飲みます。辛口でキリッとした飲み口でこれぞ地酒という味わいです。