金沢旅行記②加賀前田家が密かに秀吉を祀った豊国神社

内堀と五十間長屋・橋爪門続櫓

金沢観光2日目になります。昨日は定番の兼六園へ行ってきましたので今日はマイナーな所から卯辰山三社へ行きます。卯辰山は古くは上杉謙信が布陣したり、前田家が幕府に隠れて豊臣秀吉を祀る神社を置いていたりと戦国関連の場所になっています。

卯辰山

卯辰山

卯辰山

兼六園と金沢城の東に位置する卯辰山へ登ります。卯辰山は金沢城より高い位置にあるためお殿様を見下すのは失礼ということで江戸時代には庶民の入山は禁止されていました。この卯辰山は安政の泣き一揆の舞台や卯辰山三社の愛宕神社、卯辰神社、豊国神社があることでも知られています。まずは住宅街を抜けて卯辰山の中腹付近にある愛宕神社の鳥居から登山開始です。

卯辰山参道

卯辰山参道

ヒグラシが鳴く参道を登っていきます。

日暮ヶ丘

日暮ヶ丘

参道を登ると日暮ヶ丘に着きます。この日暮ヶ丘は慶応3年(1867)に加賀藩第十四代藩主前田慶寧の命により作られています。

金沢城公園

金沢城公園

日暮ヶ丘からは1kmほど離れた金沢城や兼六園も見えます。さらにこの日暮ヶ丘付近が安政5年(1858)の米の凶作による米価高騰で起きた「安政の泣き一揆」で領民たちが二晩に渡り金沢城へ向かい窮状を叫んだ場所と推察されています。この安政の泣き一揆により加賀藩より米五百俵の放出、米値下げの命が下されましたが一揆や直訴は重罪にあたり首謀者7人が捕縛され5人が刑死、2人が獄死しています。

精忠報国の碑

精忠報国の碑

日暮ヶ丘の片隅には「精忠報国の碑」があります。この「精忠報国の碑」は金沢出身の軍人・荒尾富三郎(1868~1905)をの死を悼んだ碑です。荒尾富三郎は明治20年(1887)に海軍兵学校を首席卒業、日清戦争、日露戦争で活躍します。明治38年(1905)に日露戦争の日本海海戦で過労で急死し、その死を悼んで「精忠報国の碑」が建てられました。題字は連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥、碑文は第三艦隊司令長官片岡中将の撰です。

卯辰山三社

卯辰山三社

三之坂、二之坂、一之坂を登ると卯辰山三社に到着です。左から愛宕神社、卯辰神社、豊国神社と並んでいます。

卯辰神社(卯辰山天満宮)

卯辰神社(卯辰山天満宮)

卯辰神社(卯辰山天満宮)

上杉謙信が七尾城を攻めた時、この地に布陣して「臥龍山」と名付けました。この峰を切り拓いて卯辰神社が建立されています。卯辰神社は慶応3年(1866)の創建であり、兼六園にあった竹沢御殿の天満宮をこの地に移して撫育所の守護神としています。御祭神は菅原道真公、副祀は大国主命、少名彦名命になります。

愛宕神社(愛宕白山社)

愛宕神社(愛宕白山社)

愛宕神社(愛宕白山社)

慶長5年(1600)に卯辰山の一支峰に社殿を造営して門前を愛宕町と称して「愛宕白山偽り申さぬ」と神威を畏怖したものです。

豊国神社(卯辰山王社)

豊国神社(卯辰山王社)

豊国神社(卯辰山王社)

豊臣秀吉を祀る神社です。前田利家の遺言により徳川幕府に隠れて山王社と称して創建します。明治19年(1886)11月に市内殿町(現尾張町)に移築され、明治40年(1907)に卯辰山に新社殿が造営されて現在に至ります。御祭神は豊臣秀吉ですが後に加賀藩第三代藩主前田利常を併祀しています。

「五七桐」の紋

「五七桐」の紋

社殿の奥には「五七桐」の紋が見えます。これで豊臣秀吉を祀っているというのがわかります。江戸時代は庶民が登ることを許されなかった卯辰山に豊臣秀吉を祀る豊国神社(卯辰山王社)が建立されていることから密かに秀吉を祀っていたのも納得です。

金沢城公園

橋爪門続櫓・五十間長屋

橋爪門続櫓・五十間長屋

昨日に引き続き金沢城公園にやって来ました。今日は金沢城公園をじっくりと歩いて回ります。

重要文化財 鶴丸倉庫(金沢城土蔵)

重要文化財 鶴丸倉庫(金沢城土蔵)

重要文化財 鶴丸倉庫(金沢城土蔵)。1848年(嘉永元年)に建てられらた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る江戸時代の数少ない建物です。

橋爪門続櫓

橋爪門続櫓

戌亥櫓跡から見える橋爪門続櫓。

重要文化財 三十間長屋

重要文化財 三十間長屋

重要文化財 三十間長屋。宝暦の大火(1759)の後、1858年(安政5年)に再建された長屋になり武器弾薬を納めていたといわれています。

二の丸広場と菱櫓・五十間長屋

二の丸広場と菱櫓・五十間長屋

二の丸広場と菱櫓・五十間長屋。

内堀と五十間長屋・橋爪門続櫓

内堀と五十間長屋・橋爪門続櫓

内堀と五十間長屋・橋爪門続櫓。

黒門前緑地(旧高峰家・旧検事正官舎)

旧高峰家

旧高峰家

金沢城公園北にあるの黒門から出て黒門前緑地(旧高峰家・旧検事正官舎)にやって来ました。黒門前緑地は平成7年(1995)まで金沢地方検察庁検事正官舎の敷地でしたが、平成13年(2001)に官舎の一部とタカジアスターゼ 、アドレナリンの発明者 高峰譲吉博士ゆかりの家屋を移築し、公園として整備されています。

豪姫住居遺址

豪姫住居遺址

豪姫住居遺址

黒門前緑地は豪姫住居遺址でもあり片隅に説明があります。豪姫は加賀藩を築いた前田利家とお松の方との四女として天正2年(1574)に誕生、後に豊臣秀吉の養女となり五大老のひとり備前宰相と呼ばれた岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ備前の方と呼ばれました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は石田三成の西軍副将として参戦するも小早川秀秋の裏切りにより西軍の敗北に終わり、宇喜多秀家と息子の宇喜多秀高、宇喜多秀継は八丈島へ流罪となり、豪姫は実家の前田家へ戻り金沢で過ごすことになり、弟の金沢藩第三代藩主前田利常より粧田千五百石を与えられ、黒門前緑地周辺に住まいがあったと伝えられています。豪姫は寛永11年(1634)5月23日に60歳で死去しています。

尾崎神社

尾崎神社

尾崎神社

黒門前緑地に隣接する尾崎神社にやって来ました。この尾崎神社は金沢の東照宮とも呼ばれる神社です。御祭神に天照大神、東照大権現(徳川家康)、加賀藩第三代藩主前田利常を祀っています。歴史は寛永20年(1643)に徳川幕府より東照大権現(徳川家康)を祀ることを許された加賀藩第四代藩主前田光高が金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立します。

尾崎神社

尾崎神社

社殿には徳川将軍家の紋所である葵の御紋が散りばめられており、「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれました。明治維新後の明治7年(1874)に東照三所大権現社から尾崎神社と改称、明治11年(1878)に金沢城内に駐留した陸軍省の都合により現在地に移され、昭和25年(1950)に本殿、拝殿、幣殿、中門、透塀などが重要文化財に指定されました。

葵の御紋

葵の御紋

神社の境内は小さいのですが拝殿、本殿には葵の御紋があり徳川家に関連があることが解ります。金沢の東照宮とも呼ばれるのも納得です。

金沢観光2日目はこれで終わりです。金沢は他に多くの名所旧跡がありますが今回はほんの少しだけ見て終わりです。

内堀と五十間長屋・橋爪門続櫓